刹那と現実の闇と俺の全ての分岐点

この日記は読まない方が良いです。





まず、1月8日の新聞の記事の一項目を載せます。
【 暗黒物質の分布 銀河そっくり 】

宇宙に満ちる正体不明の『暗黒物質ダークマター)』の分布図の作製に,愛媛大学などの日米欧の研究チームが成功した。
ダークマターの存在は知られていたが,分布を突き止めたのは初めてで、銀河とよく似た分布が確認された。
ダークマターが銀河の誕生と成長を促したという現在の宇宙論を裏付ける成果だ。
7日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表する。
ダークマターは宇宙の質量の4分の1近くを占めながら、光や電波を出さないために観測できない未知の物質。


 
ダークマターによって、宇宙のちりやガスが集まって星や銀河が誕生したと考えられている。
研究チームは、ダークマターの重力によって、その背後にある銀河の形がゆがんでみえる『重力レンズ効果』に着目。
米航空宇宙局(NASA)のハッブル宇宙望遠鏡や米ハワイにある国立天文台すばる望遠鏡で、50万個の銀河のゆがみ方を観測、80億光年先までのダークマターの3次元分布を描いた。
その結果、ダークマターが集まる空間には銀河も集中していることが確認された。
現在の宇宙論では、ダークマターの密度の濃淡によって銀河が密集したり、ほとんどなかったりという宇宙の大規模構造が形作られたとされている。
研究チームの愛媛大学の一人の教授は「ダークマターが集まる空間で銀河が誕生し、進化していったという現在の理論が観測によって検証された」と言う。
今後は更に遠方の宇宙観測を進める方針だ。

【 以上 】
これは新聞の記事の一項目を抜粋した内容です。

 

【 色々と考えて今日思った俺の理論 】

俺は生物学的にヒトと称されている。人間と言う生物に属する。しかし、それは人間が創造したものに過ぎないのではないか。真実はつきとめる必要は今は無いだろう。今は生物学的にヒトという生物として生きていけばよいのだろうから。だが、人間として生きるからこそ俺なりの生き方をするからこそ真実を突き止めたくなる。しかし、突き止めたところでそれもまた人間が創造したものでしかなく真実には更なる真実があるのかもしれない。追究は自分がするほど追究なのだろうか。所詮人間というより俺の自己満足でしかないのだろうか。それでも止まらない。それが周囲に迷惑をかけないない、つまり自分の中で自分の世界だけで追究するのであるのならよいわるいはないだろう。価値観は個人差がある。だが、俺の世界なら・・俺の価値観がそこでよいわるいを決めるのだろうか。だが、俺という人間の中に心がありその心を俺の自分の世界とするなら、俺という人間もまた一つの世界でその中に心という世界がありその中に自分の世界という世界があるのだろうか。
こう考えられなくもない。しかしそれは自分だけの創造の理論でしかなく、それが他の人に同意できる理論と言えばそうではない。確定はできないのだ。ならば全てに確定が無いように感じる。そこから思えるのは平等に使うものが良い悪いはなく平和的に過ごせるとしてあらゆる人がお互いに社会や世界で平等に使えるように人が創造したものが真実とされているという自己理論。そしてそれは仮の真実でないのかもしれない。矛盾・・違うといいたいが違うとも言えなさそうな意見。自分でもわからない。所詮、ただの独り言で自己満足で自己理論でしかないのだろうか。
いいや、違う。記すことで後に読み見返せば何か閃く。何か気付く。何かわかる。行動は無駄になることはない。しかし、読み返せば読み返すほど自分の中では賛成と否定の意見が心から湧き出る。光と闇の心の葛藤か。しかし、光と闇というのも人が創造した理論を俺が記憶し応用しているだけにすぎない。真実とは言えない。
光と闇というのは性質・属性を大きく別けて心の性質の表現の最小単位でしかないだけだと今の俺は思う。言葉には意味が奥深く拡い。一つの言葉だけで意味が大きく拡がる。しかし、言葉というのは人間がコミュニケーションをとれるように人間が創造した道具でしかない、とするならば人間という動物の世界から離れて大きく見てみよう。宇宙・・・俺には全くと言っていいほど知識がないであろう。じゃぁ、少し近づいて見てみよう。地球・・・だ。人間や犬や昆虫など沢山の生命体が潜む地球。地球は自転している。公転もしている。地球上の多くの生命体は生きている。それらの生命体が生きるというのは、地球の自転しているというのと同じような表現にとれないだろうか。それは相似といってもいいと思う。このような理論は人間が創造した数学という学問を応用したようなものに思える。俺には思えて仕方がない。地球の公転と地球上の多くの生命体の何らかの行動で似ているのは時というものではないだろうか。人間の科学的理論では星と生命体には寿命があると聞いている。寿命は人間の創造した時(時間)と言うもので生命の生死、つまり始まりと終わりまた動く止まるなどの表現の意味で使われているらしい。今の理論上ではその意味が適切であると思う。動くであるから行動という意味に当て嵌まる。公転と言うのは地球が宇宙に定められた軌道と呼ばれる道筋を地球が止まることなく回っている現象、その現象の意味を生命体で言うと行動を意味する。生命体の時と言うのは止めることはできない、また止まることもない。ずっと終わりまで動く。
そう考えると地球の公転と生命体の時というものが相似であると今の俺は思う。
このことから地球の自転と公転と生命体の生きると時というものから数学的に応用して人間または生命体の存在に合わせて地球の存在を考えると、今の俺は地球が生きているというように思えてしまう。では次は何について考えようか・・・・・・・持続してみるか。人間は病気を持つことがある。病気もまた地球上に潜む。生命体かどうかはよくはわからない。病気の所為で人間や生命体は限られた時関係なく終わりをとげ死ぬこともある。言い方的には死ぬより亡くなるの方が俺的に好ましい。病気はウイルスとも呼ばれる。俺の知っている情報では、人間が森林などを伐採し自然を破壊したりすることでその森林に潜んでいたウイルスが起きて移動して人間などの生命体に付き治療法のわからない病気などが生命体を苦しめるらしい。最近では未知のウイルスのことを情報でよくきく。詳しいことはわからない。周囲の情報が今では真実として信用できる情報だ。そこでだ。先ほどの理論に戻ると生命体と地球は生きている。相似だ。人間にとって有害物質は病気(ウイルス)としよう。ならば地球にとって有害物質は何であろうか。人間だ。紛れも無く人間だ。それ以外今の俺には生物学的に考えられない。人間以外の動物が地球に有害なことしているだろうか。自然の法則に遵い弱肉強食・本能のままに生きているだけ。人間はどうであろうか。森林伐採。自然の法則に遵うどころか自然を破壊している。環境破壊だ。しかしこうまで考え先を考えると矛盾やわけのわからない意見や理論がでてくる。やはり俺の自己満足で自己理論でしかないのだろうか。けれど無駄ではない。記すことで後に読み返せば何かわかる。何か気付く。言葉がある限り、意味はどこまでも拡がり沢山の考えがでてくる。その中でよいわるいもあるかもしれないし無いかもしれない。
一番疑問なのは・・何故俺はこのようなことを考え付いたのか・・だ。
そこで終わってしまう。
ただ今思うことがある。憎しみと怒りは別物だ。全く関係ないことを話した一言である。

 

【 以上 】



これより下の記事内容は未だ書いておりません。すみませんです。 
【 刹那と現実の闇と俺の全ての分岐点 】