悪の言葉を自ら選び使う必要などないであろう?

この日記は読まない方が良いです。




私は『キモイ』という言葉を耳にしたことがある。
『キモイ』つまり『気持ち悪い』という意味で使われている。
『気持ち悪い』を略した言葉が『キモイ』という言葉であるらしい。少なくともその意味で今や日本全国で『キモイ』という言葉が頻繁に使われていると私は耳にしている。もちろん、使っている人間もいれば使っていない人間もいるだろうと私は思う。
気持ち悪いや気分悪いなどと思うことは、例え悪質であっても人として感じて当然と言える感情だろうと私は思っている。
しかし、今や『気持ち悪い』の略称『キモイ』という言葉、それと同様の言葉の『きめぇ』や『キモス』また悪質の意味を込めた言葉などが生物を傷つける意味でも使われていることもある。
 それに関連した一つのニュースがあった。ニュースまた知人や新聞からそれについての情報を得ることができた。その程度の情報なので私は詳しく知ることができていないが、知っている範囲内の情報で私の思いを主張したいと思いここに記します。


私の知っている情報は下記の内容で全てです。
 北海道の小学六年生の若い女の子が学校で遺言を残し首吊り自殺をし、亡くなった。
原因は楽しく仲良くやれていた雰囲気の頃のクラスのみんなの様子が急に変わり、キモイと散々言われ虐めに合い、その上に仲が良かった友達までもがクラスの虐めっ子の仲間になりクラスのほとんどの人に仲間外れにされ、それらがエスカレートし学校が嫌になったことである。
遺言をクラスのみんな宛てに残し自殺したとニュースであった。私は遺言の内容については詳しく知ることが出来なかった。
ただ、その内容で新聞や知人の情報から得た下記の言葉だけを私は記憶している。
『今まで仲良くしてくれてありがとう。』
これは友達宛とクラスのみんな宛でもあった。
私が知っている情報は以上です。閲覧者の方々には少ない情報で申し訳ありません。
 
これより下記の内容は私の感想です。




 





私が実際に現場を目撃した訳ではない。ただ私が入手した情報でしかないのだ。
だから偽の情報かも知れない。本当はこんなことはなかったのかもしれない。
しかし、私は人だから新聞やニュースから得た情報を本当にあったことだと信じてしまう。今の私は新聞を読んでこれだけは自信を持って言える!”いあや、言いたい。
北海道の小学六年生の若い女の子が学校で遺言を残し首吊り自殺をし亡くなった。
そしてその原因は『キモイ』という言葉により一方的な虐めである・・と。
これらは新聞に載っていたことだし、ニュースでもあったのだから。
友から始めて聞いたとき私は知らぬ間に号泣していた。その時自分の心を客観的に見ていた感じだった。『何故、俺は泣いている?』心と身体が別にあったようだった。
この事件について今の私が思える事を書き記す。
キモイと言う感情は人としてあって当然といえる感情だと私は思う。
気持ち悪いと思う人もいる。それ故にキモイという言葉を使うことが間違いだとは言えない。悪質の言葉であることには変わりないと私は思う。
しかし、言葉には使い道また使い方がある。それは時と場合によると思う。
気持ち悪いというのは昔は気分が悪いまた心持ちが良くないなどの個人の心が何かによって影響を受け嫌な気分になる現象の意味で使われていたと私は考える。
あくまで私の考えでしかないかもしれない。だが私は自分の考えに今は自信を持って言う。
気持ち悪いつまりキモイという言葉を生命に対して、その例として人に対しして悪口の意味でキモイという言葉を使えば相手の心に傷をつけてしまう。その悪質な言葉に耐えれる人ならば平気であろう。しかし、心が弱く耐えれなければ心は傷つけられ削られ自分を攻め込み追い込みそのまま死に至るまで苦しみ生きる。一人の闇の人間の出来上がる根拠でもある。
またキモイと言われ自殺に至るか、己もキモイという言葉を放ち周囲を傷つけ生きるか、自分の中の傷を癒し直しキモイという悪質に打ち勝ち心の中の闇から這い上がり真っ直ぐ光の幸せな人生を送るかの三つの心の治療法とそれらの人生の先読みがあると私は思う。これを解り易く言えば、キモイという言葉に出会い『キモイと言われて傷ついて亡くなっていく人生か』、『自分もキモイという言葉を扱い放ち時には周囲の人を傷つけても平気で生きていき、そしてキモイという言葉の存在を好む意味で受け入れていく人生か』、『キモイと言われて傷ついた後それを克服してキモイという悪質の言葉に負けない心を持ち真っ直ぐに幸せに生きていく人生か』の3つの人生の分疑点があると私は思う。

『キモイ』というものは一つの言葉です。言葉には使い方や使い道があります。
色々な言葉がある内、どの言葉も自分がどう使うかまた自分がその言葉を使うかどうかは自分で判断できます。事と次第によっては裁判や法などで裁かれたりもします。キモイという悪質な言葉を生命に向かって悪意の意味で意図的に放つのはその生命の存在を汚れ者扱いしているということだと私は強く思います。キモイといわれれば傷つくでしょう。また傷つかなくても嫌な気分にはなるのではないでしょうか?私はキモイと言われて良い気分にはならないと私は思います。言葉を使うかどうかは自分で判断でき決めることが出来るんです。それなら意図的にわざわざ相手に対して悪質な言葉を吐かなくてよいのではないでしょうか?それとも自ら好んで意図的に悪質な言葉を相手に放っているのでしょうか? そういう人もいると思います。弱いですね。悪魔ですね。(笑) 
もう、悪質言葉や行動がが多く使用され起されているこの世界で悪質を少しでも減らそうとはできても諦めるしかないくらいの気持ちなったことがありましが・・・結局未だ私は諦めてません。自ら悪になり悪質を放つ必要はあるだろうか? 言葉の存在は認めても意図的に相手に悪質な言葉を放つ行為は認めがたい。
俺は独りで真の中の良きことを見つけ独りで闘う。
勝手に闘う。けれど、なるべく闘いを避けて進もう。
発展はよいとしてもそれなりのリスクを背負わなければいづれ自分にその分の災いが降りかかる。
仲間など居ない。一人ひとりの道がある。
俺は独りだ。だから独りで闘う。
自分にも他者にも負けないように闘う。

 
 悪の言葉を自ら選び使う必要などないであろう?
 自分の言葉が自分の心がそれに込められた性質が行動により自分を悪と善の姿にわけるといっても変ではなかろうか。
それも確定はできない。しかし、間違いを知るまでは今の正しいを貫き通す・・・・そいうものではなかろうか。
悪の言葉を自ら選び使う必要などないであろう?

理解できないなら理解させるか理解するまでそのままだ。
 
  
そんなにキモイという言葉を使うことに快感があるのだろうか・・・・・それを原因に亡くなる命が在るというのに・・・・
 
 

そういう話しをして冷めたら気分治し♪

癒し系のBRACK:ZERANO君の写真で。
美しいものを見ることはできるだろう。
 

 

 



 
 
 


 

 

 

 
 


 


 

しかし、時と場合によっては悪に対し悪を放つ必要はあるかもしれない・・・
わからない・・・
今はもっと勉強だ。