俺は罪を新たに背負った。思い込みによって

この日記は読まない方が良いです。






(生命は貴い重い命。 それが蟻でも)



初めに・・言葉の使い方を考えて欲しいです。
一つ、キモイという言葉を使うことにおいて、考えて欲しいです。
詳しいことは二日、三日目前の記事に書いております。m(_)m




俺の高校は農業関係の高校です。
だから自然が多く、生命も多く、感じるものも多い。
今日から俺は孤独になる努力をしようとしている。
なかなか難しいものだ。
だけど、そうさせてくれるきっかけができた。
今日、学校で二時間目の世界史の授業で俺は一つ生命の死を見届けた。
授業開始して少し時間が経った後・・アシナガバチが飛んできてみんなが騒いだ。そしたら先生が分厚い本を丸めてアシナガバチを追い払った。そこまではいい。しかし、その後すぐに逃げていくアシナガバチを殺した。
俺は憎しみがこみ上げた。殺したのに普通にして授業を始める先生と、アシナガバチが死ぬ瞬間を見ていて笑っていた一人の生徒の心から感じられるものに。当たり前の現状とは思う。俺には普通に虫を殺すことができる人の気持ちがわかるから。過去は俺もそうだった。
しかし、アシナガバチに何の罪がある? 俺たちに危害を加えたか?いや、加えていない。そうなる前に殺したのだから。人間の恐怖か何かの感情によって。俺たちが何もしなければアシナガバチは何も危害を加えないだろう。
俺は見届けるしか出なかった。出来たのに出来なかった。
言わば俺の所為で死んだのかもしれない。俺が先生に俺の意見を言っていればアシナガバチは死なずに済んだのかもしれない。
俺は自分の無力さ、弱さ、未熟さ、とにかくそのときの自分を殴りたかった。
アシナガバチの死は俺の背中に背負ってこれから活かし罪を償う。
俺の無力さゆえに。
この時すでに俺は自分の世界に入った。
これが難しくて孤独になることのできるきっかけとなったのだ。
そして5、6時間目の実習授業。
これが俺の心を孤独に染めた。
まぁ、今回のこの授業は農家の手伝いをするみたいな感じで、俺は雑草抜きをした。
俺が雑草を抜こうとしたとき、ふと脳裏に言葉浮かんだ。『雑草をぬいていいのか?』と。自分でも『何言ってんだ俺(心の中で)]』って思った。
その時即色々考えや言葉が浮かんで少し悩んだ。
その考えを簡単に言えば『雑草も生きている』ということ。
雑草は動かない。今までのイメージでは雑草は作物などや通り道などで邪魔になるからということで抜いていた。何のためらいも無しに。
しかし、今日は違った。ためらった。雑草も生きている。抜いていいのか?殺すのか? ただ、人のために。作物が上手く育つようにするために。
邪魔が為に。
人のために、雑草を抜くのか?殺すのか?
雑草でも生きている。虫のいろんな面で役に立っている。
ためらっていた。出来なかった。だけど、こう思った。
これは授業であり、やらなければならない。
他にも似たような考えを思いついて、二つの思いを反発するようにぶつけながら俺の中で悩んだ。しかし、これはたった数分の悩みで決断が出た。
俺はいつも考えるのが早いから。
結局俺は雑草を抜いた。
やっていっることは『戦争で仕方ないと自分に言い聞かせながら自分の本心に嘘ついて命令に従っている姿』と同じ。
俺は『ごめんな。』と何度も謝りながらそれでも未だに真実を求め悩みながら俺は雑草を、WEEDを、森の民を殺していた。
ただ、雑草を抜くだけなのに、殺している、という表現に俺の胸の中ではなっているのだ。
真実などすでにわかっていたのではないか。俺は解っていながらやったのではないか。
計、約1800の雑草を殺した。ことになる。
実習の終わりが近づく頃、俺は手がヒリヒリするからつい目をやった。
そこには、黒いようで灰色の血があったように見えた。
あいにく緑色は帯びていなかった。
幻か、ただの思い込みか、現実か。わからない。
本当はただの土かもしれない。

一般からしたらこれは俺の思い込みだろう。
しかし、俺は思い込みとは思っていない。
俺の中の考え、思想だろうか、何にせよ俺の中では雑草も生きているという考えがある。そう我々人間と同じように。
ただ、生き方が違うだけではないのだろうか。
この世界で、地球で、星で、共に生きている。
雑草だけではない。全ての命(生命)が。主に生物が。
肝心なことを言うなら、この地球も生きている。俺はそう思う。

俺は今日1800もの雑草の生命の重さを背負った。
一般的の考えを含めて、自ら罪を背負った。
これが俺の生き方なのだろう。
まだ、未熟。俺はもっと自分を高めなければならない。
もう、このような無駄な死も無いように。
暗闇に堕ちていく人間をつくらないためにも。

俺は何が正しいか間違っているか見極めることが出来る。
しかし、それもまだ未熟なため範囲が限られてる。
本来はなかったのだろう。正しい、間違いという言葉など。意味など。
しかし、今、人は社会の中で生きる。共同だ。

欲望に走って好き勝手やって良いわけじゃない。
人は常に欲望に走って行動している。
理性で善いか悪いか判断し行動しているのが日常である。
俺はそう思う。

この記事で伝えたいことはない。
ただ、俺の考え、日常を記しているだけ。
それから学ぶ人もいる。
そうじゃない人もいる。
それが俺の言葉が届くか届かないかの現し。
いつも変わるのは俺だけだろうか? 
いつも都合のいいようになって会話するのは俺だけだろうか?
俺だけが変わって他の人は変わらないのだろうか?
わからない。
少なくとも俺は知っている。
変わっている人もいれば、肝心な人は変わっていない、そういうひともいる。
卑怯だよ・・・・・俺だけ・・なんて・・
俺が見下しているような言い方をしてる、気持ち悪い、偽善、酷い、色々な見方があった。
それもいい。
しかし、同時に俺も同じことを思うだろう。
悪の感情は悪の感情を生むから。
これは憎しみがさらなる憎しみを生むのと同じ。
俺の言葉、ちゃんと届いてますか?
言葉という文字の掲示板でいつもいつも必死で伝えている思い、ちゃんとじゃなくても少しでも伝わっていますか?
例え、どのような姿でも生命でも人でも、認めてあげればいいじゃないですか。違うのでしょうか? 
どんな人でも認めてあげれでいいんじゃでしょうか?
俺は今、行動を認めるの問題の話しをしているのではないですよ?
姿、その人、性格を認めるの話しをしています。^^*
見下してるとかそれはその人の受け取り方の問題。
俺も見下してるように受けて取れる時がある。けれど、俺は気にしない。
ムカついたりしない。普通だ。
キャシャーンという映画にこのような言葉があった。
『僕たちはお互いの存在を認めるべきだったのかもしれない』
お互いの存在。雑草。人。鳥。動物。犬。蟻。生命。
                地 球

少しでも僕の伝えたいことが届いてるでしょうか?

人の嫌な噂をして楽しい? 虐めて楽しい?
嫌がる姿を見てたのしい? 
これは一部の方々への俺の疑問です。

自分が偽善だと思えば偽善になることもあります。
誰でも心に正義はあります。
しかし、正義は善とは限りません。
正義に悪もあります。
それは偽善とは異なるものです。


言葉には意味があります。意味は一つでは無いと思います。
その上で言います。
『私たちは、我々は、生物全て、まずそこから、お互いの存在を認めるべきなのではないでしょうか。』

存在には沢山の意味があります。

俺は今はこんな風ですがいずれまた昔の俺に戻ります。
それはブログだけでの話しです。
嫌われた方がいい。そのほうが話す機会が多くなる。
これは意図的という方法にもなる。
わざと、話させるために嫌われる。
『敵を騙すならまず味方から』
これと似たような方法かもしれない。

俺は俺です。
ここにいるだけが俺ではありません。
『人は人に対してイメージを抱く。しかし、そのイメージが正しいとは限らない。人は、思いもよらぬ別の顔を持っているのかもしれないのだ。』
まさにその通り。
人を見た目で、一つで、判断してはならない。
『百聞は一見にしかず』

今日の記事は俺の二つの気持ち、思いがあります。
大まかに光と闇。本当に大まかにです。

    最後に一つ・・命は貴い重い生命なり。
           (貴い=とうとい)
        life and heart




   



BY DARKNESSHEART

『感想:

蟻たちは必死に餌を探していました。餌を見つけたものは運び、見つけて無い者はせっせと働く。
人に踏まれていた蟻も複数いました。
蟻は女王蟻のために働いているのでしょう。
子孫のために・・ですな。
いやぁ〜〜感動っ☆
そういう姿は可愛いよ、蟻クン。
頑張ってね。                            』